説話の構成

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    ヤマトタケル説話の構成

    ヤマトタケル説話の構成
    ヤマトタケルの物語は、かつて吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面によって変わるのが特徴である。
    また、説話ごとに相手役の女性も異なっている。
    加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関わっていたことが伺える。
     
    小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説)
    妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江の一の宮が建部神宮で祭神がヤマトタケルであること…などから近江=滋賀県がヤマトタケルとつながりが深いことがわかる。
    兄大碓命の封地が美濃である事と考え合わせると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。
    碓や稲依別の名からは、穀霊である事が推察できるが、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話が『山城国風土記』などに見られ、白鳥との関連も伺わせる。
    尚、『武智麻呂伝』にはヤマトタケルが伊吹山で、『平家物語』剣の巻には近江で白鳥となった説話が伝わっており、白鳥になる話の根幹が近江に在った可能性は否定できない。
     
    倭姫・倭ヲグナの物語(大和に伝わる幼童神伝説)
    日本においては、桃太郎や一寸法師など童形の英雄によって悪の征伐がなされるという説話が多く見られるが、このくだりについても同様の類型性が窺えるとされる。
    また折口信夫はそれらの分析を通じて、幼童神的モデルを育てる「小母(おば)」の存在を指摘しており、この場合倭姫がそれに該当するものと見られる。
    また、少年であるヤマトタケルが女装する点に関し、様々な文化圏のシャーマニズムにおいて散見される異性装と相通じるものと指摘される。
     
    出雲タケルの物語
    (出雲の神門臣の勢力争いの物語の挿入→原型は崇神紀の出雲振根説話)


    タケル大王・橘姫の物語

    タケル大王・橘姫の物語(関東地方の英雄伝説か?)
    『常陸国風土記』等には倭武天皇−橘皇后、大橘姫など表現されており、各種の地名起源説話が伝わっている。
    本来は山を象徴する武王と海を表す橘后の神話と推定される。
    現在でも千葉県などに地名説話が多く残っているのは、関東にかなり根を下ろした伝承であったからと考えられる。
     
    美夜受媛・草薙剣の物語(熱田神宮を巡る伝説)
    吉井巌は、本来皇位の象徴である三種の神器の草薙剣が、尾張の熱田神宮に置かれている理由を説明するために、ヤマトタケルに仮託された物語と考えられるとする。
    詳細は草薙剣の項を参照されたい。
     
    斎王倭姫の物語(伊勢神宮を巡る伝説)
    死に際する彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつ伊勢斎宮の制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍ルートに重なることから、伊勢とのかかわりが考えられるが、横田健一は『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』にヤマトタケルの物語が見えないことを指摘している。
    おそらく、草薙剣の問題でヤマトヲグナ説話の登場人物のヤマトヒメと斎王倭姫命を結びつけたことにより伊勢地方の説話がヤマトタケルに仮託されたのであろう。
     
    大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承)
    吉井巌は、聖徳太子の弟で、実在する初の皇族将軍である来目皇子が出征先の九州で病死したことがモデルとなっているとする。
    この葬儀を主導した土師氏の葬送儀礼が物語に取り入れられたのであろうとする。


    祭祀
    祭祀
    ヤマトタケルが歿した能褒野の地とされる三重県北部には、ヤマトタケルの墓とされる古墳(白鳥陵)がいくつかあった。
    その中でも鈴鹿市加佐登の「白鳥塚」と呼ばれる円墳が最有力とされていたが、明治12年、内務省は亀山市田村町の「丁字塚」と呼ばれる前方後円墳(能褒野王塚古墳)がヤマトタケルの墓であると治定し、「能褒野陵」と命名した。
    能褒野陵は全長約90メートル、高さ約9メートルで、三重県北部最大の前方後円墳である。
    明治28年(1895年)、能褒野墓に隣接してヤマトタケルを祀る能褒野神社が創建された。
    その他、白鳥陵が、『日本書紀』に即して大阪府羽曳野市(軽里大塚古墳)と奈良県御所市に比定されている。
    また、ヤマトタケルの息子が創始したといわれる建部大社(滋賀県大津市)や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立ったところに建てられたとされる大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られている。
    どちらもその国の一宮として強い信仰を得ている。
    大鳥神社(鷲神社)は各地に分布しており、大鳥大社はその本社とされる。
       

    神功皇后
    神功皇后
    神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。
    『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。
    父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)。
    彦坐王の4世孫、応神天皇の母。
     
    事跡
    日本書紀などによれば、201年から269年まで政事を執りおこなった。
    夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
    渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。
    月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
    その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。
    他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
    神功皇后が三韓征伐の後、畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
    この時代は、長期間にわたって天皇が空位のままだったため、明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなし、15代の帝と数えられていたが、1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された。
    明治から太平洋戦争敗戦までは、研究の場では江戸時代より様々な論考があったにもかかわらず、学校教育において実在の人物として教えるよう指導されていた。
    現在では実在説と非実在説が並存している。
    日本書紀において 巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」と中国と倭の女王の記述が引用されており、収録するにあたってヤマト王権と「卑彌呼」を関連づけさせる為に伝承が作り上げられたという説がある。
    直木孝次郎は斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説を唱えている。
    卑弥呼と同じような巫女王とする見方もある。
    住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱として信仰されるようになる。
    大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮など、いくつかの神社の祭神となっている。
    所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られている。

    熟女
    陵墓
    宮内庁では、奈良市にある五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵)としている。
    神功皇后の陵墓については、古事記では「御陵在沙紀之盾列池上陵(御陵は沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り)」、日本書紀では「葬狭城盾列陵(狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る)」と記している。
    狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のことである。
    承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。
    後に、「御陵山」と呼ばれていた佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
    その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が現在地であることが判明し、文久3年(1863年)、五社神古墳が神功皇后陵に治定された。
    人気があるのは何故か?熟女はやっぱりいいものです。

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