源義経

源義経
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    源義経

    源義経
    頼朝との対立
    平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。
    元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。
    また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状[7]が頼朝に届いた。
    一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。
    しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。
    このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経は留め置かれた。
    5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状[8]である。
    義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事によるとしている。
    主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
    特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。
    また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自殺に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。
    そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集める事は、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。
    義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平家の捕虜である平時忠の娘を娶った。
    かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。
    結局義経は鎌倉へ入る事を許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。
    これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。
    義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。
    一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。
    義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。


    謀叛

    謀叛
    10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。
    10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。
    義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。
    彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。
    京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。
    さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。
    29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。
    11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。
    途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。
    6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。
    これにより義経の九州落ちは不可能となった。
    一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。
    さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。
    義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。
    逃れた義経は反鎌倉の貴族、寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。
    院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。
    京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。
    『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃国を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。
    一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。


    最期
    最期
    藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。
    頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。
    一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。
    また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。
    しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の頼衡を殺害。
    そして閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。
    義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。
    館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。
    享年31であった。
    泰衡は義経の首を差し出し、先に殺害した弟頼衡と同じく義経派であった別の弟忠衡も殺して、頼朝に助命を願い出る。
    しかし鎌倉は奥州追討に乗り出し、逃亡した泰衡は家人に裏切られ殺害された。
    義経の首は泰衡の弟・高衡に護衛され、43日間かけて鎌倉に送られた。
    首は、美酒に浸けて運ばれたものの、折からの暑気で腐敗し、誰の首かわからなくなったという。
    このことが義経不死伝説を生む一因となっている。
    文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。
    伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。
    また、最期の地である奥州市衣川区の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。
       

    人物
    人物
    系譜
    義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、父義朝の九男にあたる。
    『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとするが、伝説の域を出ない。
    義朝の末子であることは確かである。
    源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。
    また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。
    妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身の為に差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。
    子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜に遺棄された男児、伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)の妻になった女子の3人が確認される。
     
    人間像
    死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。
    『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。
    しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。
    同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。
    義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。
    卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。
    義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。
    『玉葉』によると、寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞する為、少数の兵で都に駆け戻る。
    朝廷側は平家が皇室の外戚である為、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。
    何故平家に味方するのか。
    非常に不信である」と強硬に主張。
    公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。

    不倫
    『吉記』元暦2年(1185年)正月8日条によると、平家の残党を恐れる貴族達は、四国へ平家追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。
    範頼がもし引き返す事になれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大な事になります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。
    『吾妻鏡』によると、2日16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。
    これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した。
    『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いている。
    また18日、義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。
    兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。
    風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
    壇ノ浦の合戦後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状[7]を受けて、『吾妻鏡』は「自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いている。
    その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面が伺える。
    壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。
    張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。
    『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。
    自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。
    その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにも関わらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。
    今や生きる望みもない。
    しかも自分を殺そうとする確報がある。
    どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。
    この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。
    それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。
    院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。
    理由は先日述べた通り。
    今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。
    それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。
    追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れる為、鎮西に落ちます。
    最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。
    『玉葉』の著者である公家の九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。
    義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。
    洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。
    義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。
    賞賛すべきである)」と褒め称えている。
    こんど不倫旅行を計画してみたい。 不倫旅行ならどこに行くのがいいのだろうか。

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