源義経2

源義経2
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    源義経2

    源義経2
    容貌・体格
    義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。
    義経肖像としてよく用いられる中尊寺所蔵の画像は弁慶と対になっており、『義経記』で藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものであるが、これは戦国時代、もしくは江戸時代の作とされ、本人の実際の姿を描いたものではない。
    身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。
    しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かな事は不明である。
    義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の武士・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。
    これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである。
    また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。
    『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。
    その一方で平家物語をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。
    『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。
    『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている。
    江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。


    郎党・従者など

    郎党・従者など
    ※斜体は物語のみに見られる人物。
    源有綱…義経の娘婿。
    一条能成…義経の異父弟。
    武蔵坊弁慶…義経四天王の一人。
    佐藤継信…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
    佐藤忠信…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
    伊勢義盛…義経四天王の一人。
    堀景光…『平治物語』では金商人とされる。
    深栖頼重…『平治物語』で鞍馬寺を出奔した義経を東国で匿う。
    亀井重清…義経四天王の一人。
    片岡経春…『義経記』における義経四天王の一人。
    常陸坊海尊…義経四天王の一人。
    鷲尾義久…『平家物語』の一ノ谷の戦いで現地採用される。
    駿河次郎…『義経記』における義経四天王の一人。
    鎌田正近…『義経記』で義経に出生の秘密を告げる。
    鎌田盛政…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
    鎌田光政…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
    金売吉次…『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』における奥州への案内人。
    堀景光と同一人物である説もある。
    十郎権頭兼房…『義経記』に登場する老臣で義経正室の守り役。
    喜三太…『義経記』に登場する下男。


    伝説
    伝説
    優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき)というようになった。
    また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。
    義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
    特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。
    また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。
    例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。
     
    不死伝説
    後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。
    このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。
    この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。
    義経の戦術は奇襲攻撃が多く、アイヌの人々の狩りのやり方によく似ていた。
    義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。
    これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。
    このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
    またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。
    またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
       

    義経=ジンギスカン説
    義経=ジンギスカン説
    この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。
    この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。
    清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。
    その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。
    これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が元ネタである。
    このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。
    明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は、当時中国の属国としか見られていなかった日本の自己主張のために、ケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。
    大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
    彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。
    この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。
    現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになった事によるものである。
    こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられる事はなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。
    この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。
    しかし、現在では後年の研究の結果、チンギス・ハーンのおおよその生年も父親の名前もはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・ハーン説は科学的には完全に否定されている。

    逆援助
    藤原秀郷
    藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。
    下野大掾藤原村雄の子。
    藤原北家・魚名の後裔とされる。
    生母は下野掾鹿島某の女とする。
    俵藤太(田原藤太とも;読みは「たわらのとうだ」「たわらのとうた」)の通称で知られる。
    官位は従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍。
    死後、贈位を受け贈正二位。
    室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。
    もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。
    源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒も多い。
     
    経歴
    出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある(あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。
    俵藤太(田原藤太)という名乗りの初出は『今昔物語集』(巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」)であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。
    田原藤太の由来説には、相模国淘綾郡田原を名字の地としていたことによるとする説、幼時に京都近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説などがある。
    秀郷は下野国(現在の栃木県)の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(18?)名とともに流罪とされた。
    しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。
    さらにその2年後の929年には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。
    唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。
    天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、平貞盛と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。
    複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[3]。
    この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。
    さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。
     
    百足退治伝説
    近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。
    その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。
    娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。
    娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。
    藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、三上山を7巻き半する大百足が現れた。
    藤太は矢を射たが大百足には通じない。
    最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。
    藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。
    また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、将門を討ち取ることができたという。
    秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた男体山の神を猿丸太夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。
    また類似した説話が宇都宮(下野国)にも現存する。
    即ち俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。
    「三上山を7巻き半と聞けばすごいが、実は8巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。
    これは古典落語「矢橋船」などで用いられている。
    どのような援助が好ましいのか 逆援助に関して考えてみよう。

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