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坂上田村麻呂
征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、日本の令外官の将軍職の一つ。
由来としては天皇に任命される軍事指揮官であるが、1192年から1867年にわたり幕府と呼ばれる武家政権を敷き、各々の将軍家が世襲君主として日本全土に政治的・軍事的に君臨した。
征夷大将軍は、奈良時代から平安時代には、東国に派遣された将軍の呼称の一つであった。 略して将軍、公方、大樹、大樹公、御所などとも呼ばれた。 征戎大将軍、征蛮大将軍、という名称の職はないが、類似した職に征狄大将軍(せいてきだいしょうぐん)や征西大将軍・征東大将軍がある。 日本紀略の延暦11年(793年)2月17日の条に「征東使を改めて征夷使と為す」とあることから、征夷使(征夷将軍、征夷大将軍)と征東使(征東将軍、征東大将軍)は同質のものと解される。 このほか、征夷大将軍に比する官職として、鎮守府将軍があるが、鎮守府将軍が平時における地方軍政府の最高責任者であるのに対して、征夷大将軍は非常時における地方軍政府の最高責任者である。
征夷大将軍は天皇の勅令によって任命された。 これを将軍宣下という。 だが、武家政権下においては天皇の従順な臣下というよりは、天皇の統制者だった。 足利義満以後は、対外的には日本国王としての待遇を受けるのが通例であった。
また、江戸時代に至ると、将軍は実際上の国内統治権や対外的な君主としての代表権のみならず、政治的な権威の面でも天皇家を抑えるようになった。 江戸幕府の確立以降、将軍宣下に当たっても勅使が江戸城に赴き、将軍が上座、勅使が下座に立つのが礼法であり、天皇への書面上も『公方様より禁裏へ』と対等の文言を使い、さらに秀忠・家光は天皇との会見の際、太上天皇と同様天皇と向かい通しで対面するなど、政治的権威の面でも天皇と同格に迄至った。 しかし幕末には天皇家の権威が尊王思想の影響により回復し始め、勅使が上座に立ち、将軍が下座に立ち、また将軍家茂上洛の際も、朝廷の高官たちが家茂への礼遇を低くするという変化が見られた。
鎌倉時代から江戸時代まで、幕府の長であり、武家の棟梁が位に就いて子孫が世襲する形を取った。 だが、平氏政権と織豊政権は、征夷大将軍に任じられず、幕府を開かずに武家政権を確立した。 一部の将軍は、天皇と同様、子供時代に将軍職につき、後継ぎに職を譲って引退した。 また、徳川将軍家には、天皇家と同様「御三家(ごさんけ)」という傍系の家門があっ。 19世紀のはじめには、将軍職にも皇位にも傍系の出身者がのぼっている。
江戸末期の徳川慶喜による大政奉還により江戸幕府が事実上消滅し、さらに王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。 これにより、武士、武官が征夷大将軍に任ぜられて、武家政権の幕府を開設する幕府制度も正式に消滅した。
武家政権下での将軍家と天皇家の関係は、イスラーム世界でのブワイユ朝からマムルーク朝にいたる王家とアッバース朝カリフ家との関係に酷似している。 前者が政治的権力・権威を持ち、君主として支配すること、後者はかつて君主として実際的な支配権を持っていたが、現在では支配権を失い、前者に対し名目上優越し、超越的権威の裏づけを与える役目を持つにとどまること、そして後者が神や預言者の血族という神聖な起源に由来する超越的・宗教的権威を持つ家系であることが、その類似点である。
歴史
奈良・平安時代
「征夷」とは、「夷を征討する」の意味。 征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の一つで、太平洋側から進軍する軍隊を率いた。 日本海側を進軍する軍隊を率いる将軍は征狄大将軍、九州へ進軍する軍隊を率いる将軍は征西大将軍と呼ぶ。 これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ、中華思想の「四夷」をあてはめたためと思われる。
なお、当初は「征夷」と呼ばれていたが、宝亀以降「征東」となり、延暦12年以降再び「征夷」となる。 「征夷将軍」の初見は、養老4年9月28日に任命された、多治比縣守であり、「征東将軍」の初見は、延暦7年12月7日に辞見した紀古佐美である。 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。 延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。 「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。 日本紀略には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとある。
大伴弟麻呂に代わって実質的に戦争を指揮した征東副使・征夷副使の坂上田村麻呂は、延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命された。 坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北全土を平定した。 その後文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に「大」なしの征夷将軍に任命され、同年 閏12月11日 蝦夷征伐の終了を奏上、鎮守将軍(府なし)には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には、また「大」なしの征夷将軍に復帰している。
なお、征夷大将軍の下には征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹などの役職が置かれた。
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田村麻呂伝説
後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ、しだいに膨らんで歴史上の田村麻呂とかけ離れた人物と筋書きを生んだ。 伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。 平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。 伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。 鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。 複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま)(説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。 諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。 また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。
田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。 大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。 伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。 京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。 その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。 長野県の清水寺には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。
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源義経
源 義経(みなもと の よしつね、源 義經)は、平安時代末期の河内源氏の武将。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。 仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
河内源氏の当主である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。 平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。 兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことでその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
生涯
文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
源九郎義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、謎に包まれている。 今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』[1]や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。
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誕生
清和源氏の流れを汲む河内源氏の当主源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。 母常盤御前は九条院の雑仕女であった。 父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗れ、数え年2歳の牛若は、母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若、乙若とともに大和(奈良県)の山中を逃亡した。 しかし常盤は実母が捕まったことを知ると、清盛の元に出頭して3人の子と母の助命を乞い、その許しを得た。
後に常盤は公家の一条長成に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時鞍馬寺(京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った。 そして11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になる事を拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ[2]。
遮那王は成人するに至って父を滅ぼした平家に対する復讐の念を抱き、16歳の時に鞍馬寺を出奔する。 自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。 秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い。 『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。 『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
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治承寿永の乱
治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。 秀衡から差し向けられた佐藤継信、佐藤忠信兄弟等およそ数十騎が同行した。 義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。 頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。
平氏を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。 寿永2年(1183年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。 翌寿永3年(1184年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を討ち取り、頼朝の代官として入京した。
この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。 義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。 範頼は大手軍を率いて出征した。 2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平家本陣を奇襲する。 平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。 上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。
一ノ谷の合戦後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。 元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、そこに任官を願っていた義経の名は無かった。 8月6日、義経は三日平氏の乱の対処にあたり、頼朝の推挙を得ずに後白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。 鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。 頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。 8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。 9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。
一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。 頼朝はやむなく義経の投入を決意。 元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。 通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲する。 山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。 義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平家から取り戻した鏡璽を奉じて4月24日京都に凱旋する[6]。
最近様子がおかしい
セフレ関係も終わりに近いのかもしれない。
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